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ケルンは簡単な名前の上、「大きな教会」のお陰で、日本でもほとんど誰でも知っている町。ただしドイツ人に「ケルン」言っても、「何だって?」と、絶対に通じない。最初の難関はOEの発音。敢えて言えば、日本語で「オ」と発音する口をして、「エ」と言えば、比較的近いものになるが、これにすぐ続いて日本語にはないLが続く。専門家に言わせると、「上の歯の後ろにちょっと出っ張っている歯茎の上に、舌をしっかりとつけて L (ウ)という音を口と鼻からだすと、発音できます。」との事。子供の頃ドイツに住んでいない限り、そんなアクロバチックな発音ができるに日本人は居ない。
ややっこしい名前を発案したのはローマ人。ライン川左岸の植民地を"Colonia Claudia Ara Agrippinensium"と呼んだのが、その起源で、"Colonia"とはラテン語で植民地という意味だ。ケルンの町はスペイン語やイタリア語では、今日でも"Colonia"と呼ばれているので、いざとなれば「ケルン」と言わず、「コロニア」と言った方が通じるかもしれない。町の名前が発音できなくなったのは、この地にゲルマン民族が入植して、名前がCoellen、後に、Coelnとゲルマン化されのが原因だ。
5世紀になって"Colonia"を占領したのは、ゲルマン4大種族の一つ、フランケン族だ。フランケンは5世紀に現在のフランスにある地域に、フランク王国、メロヴィング朝を築き、次第に東にその領土を拡大していった。ケルンを手中にしたフランケンは、他のゲルマン民族と異なりローマ人を追い出すことなく、その文化の中に取り入れてしまった。その結果、生粋のケルン人の血にはラテン系の血が流れており、建築様式なども、イタリアの建築様式を取り込んで発展していった。
11世紀には司祭よりもさらに偉い枢機卿がこの地の居住する事になり、ケルンはますます発展して人口4万人の大都市となり、枢機卿はケルン選帝侯の地位にも就任する。そしていよいよ13世紀にはケルンのドームの建設が始まる。もっともこの頃、デユッセルドルフの建国の父であるvon Berg公爵と枢機卿(カトリック)軍がケルンの支配権を巡って衝突、公爵が勝利して、枢機卿は町から追い出されてしまう。これが原因で、あれから800年も経っているのに、ケルン市民は未だに「デユッセルドルフ」と聞くと、アレルギー症状を起こすので、生粋のケルン人の前で「デユッセルドルフ」は禁句だ。 18世紀初頭にはフランス軍がこの地を占領するが、フランス軍は解放者と迎えられる。ナポレオンがケルンにやってきた時の歓迎の様子は、今でも語り草になっている程だ。この背景には、この地では差別を受けていたユダヤ人やプロテスタント教徒が、ナポレオン法典のお陰でカトリック教徒と同等の権利が認められた事実がある。ナポレオンが落ち目になると、ケルンはプロイセンの領土となるが、市民の反応は今ひとつ。そこでプロイセンの皇帝は、ケルン市民のドイツ人意識を高めるため、町の名前をCoelnからKoelnへと変更、今日に至っている。
ケルンの町は、ミュンヘン、ベルリン、ハンブルクに次いで4つ目の大都市。当然、家賃もデユッセルドルフよりも高め。気候はライン河畔にあるので温暖、冬も過ごし易い。残念ながら日本関係のインフラは、日本食レストランを除けば、皆無に等しい。ケルンに住む日本人の人口が圧倒的に少ないから、これは仕方ない。しかし、ドイツに留学に来て、日本人の多い所を避けたいけれど、たまには日本食料品や、日本の書籍を必要とされる方には理想的。デユッセルドルフまで電車で30分程度なので、週末に買出しに行けます。ケルンの駅から超特急がパリ、ブリュッセルまで一日数本出ているので、遠足には便利。パリまで片道4時間、ブリュッセルまでわずか片道2.5時間の旅です。
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